倉俣史朗の学歴【小学校・中学・高校・大学はどこ出身?】
小学校:昭和小学校
倉俣史朗は、父親が務めていた東京都・本郷にある「理化学研究所」の社宅で生まれた。
しかし、1943年に本郷の家が空襲で焼かれてからは、一度静岡県の知人宅に疎開していたが、終戦後には東京都・駒込に移住。
小学校は駒込にある「昭和小学校」に通学していた。
ちなみに、1991年に急性心不全で他界した倉俣史朗だが、2023年12月には、倉俣史朗生誕90年を記念して、ゆかりの地駒込で「倉俣史朗展」が開催された。
倉俣史朗の家族構成
中学校:文京区立第九中学校
昭和小学校を卒業した倉俣史朗は、地元の「文京区立第九中学校」に進学。
文京区立第九中学校は、お笑いトリオ・東京03の角田晃広などが卒業した中学校としても知られている。
高校:都立工芸高等学校・木材科
文京区立第九中学校を1950年に卒業した倉俣史朗は、その後東京都文京区にある「都立工芸高等学校」に進学している。
都立工芸高等学校は、工芸系の公立工業高校であるが、全体の8割が女子という少し珍しい高校である。
偏差値は58前後。
現在、都立工芸高等学校には「アートクラフト科」「マシンクラフト科」「インテリア科」「グラフィックアーツ科」の4つの学科が存在するが、倉俣史朗は旧・木材科(現・インテリア科)を専攻していた。
就職:帝国器材家具工場
都立工芸高等学校を卒業した倉俣史朗は、大学や専門学校には進学せず「帝国器材家具工場」という会社に入社している。
帝国器材家具工場は、木製家具や什器の開発、設計、製造などを行う家具メーカーである。
しかし、芸術としての家具製作に未練があったのか、倉俣史朗は2年後の1956年にデザインの専門学校に進学している。
専門学校:桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科
倉俣史朗が進学したのは、東京都渋谷区に所在するデザイン学校「桑沢デザイン研究所」であった。
桑沢デザイン研究所は、1954年に日本初のデザイン学校として誕生した専門学校であり、創立から5年間は夜間のみの授業を行っていた。
そんな歴史のあるデザイン学校で、倉俣史朗は「リビングデザイン科」を専攻。
のちの世界的インテリアデザイナー・倉俣史朗はこの学校でデザインの基礎を学んだのである。
その後の経歴
桑沢デザイン研究所を卒業した倉俣史朗は、その後以下のような経歴をたどっている。
- 1957年:株式会社三愛宣伝課入社(~64年)
- 1964年:株式会社松屋インテリアデザイン室嘱託(~65年)
- 1965年:クラマタデザイン事務所設立
自身のデザイン事務所「クラマタデザイン事務所」設立後は、前衛美術家「高松次郎」やグラフィックデザイナー「横尾忠則」など、名だたる芸術家とコラボするなど、徐々にデザイナーとしての地位を確立していった。
倉俣史朗の学歴【小学校・中学・高校・大学はどこ出身?】まとめ
倉俣史朗の学歴まとめ
- 小学校:昭和小学校
- 中学校:文京区立第九中学校
- 高校:都立工芸高等学校・木材科
- 就職:帝国器材家具工場
- 専門学校:桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科
今回はこれで以上になります。
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