松下幸之助の家系図
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松下幸之助の家系図は上記の通り。
以下では、松下幸之助の具体的な家族構成について解説していく。
松下幸之助の家族構成【妻・子供(息子・娘)・父母・子孫は何者?】
妻:「松下むめの」の生涯はNHKでドラマ化された
松下幸之助の妻の名は「松下むめの」。
結婚当時、松下幸之助は財産も学問もないという貧しい電気工であった。
さらに、結婚してからは、独立して事業を立ち上げたはいいものの失敗の繰り返し。むめのは貧乏生活を強いられることとなる。
しかし、そんな松下幸之助を、むめのは内職などをして懸命に支えていったのである。
そんな彼女の生涯は、2011年に髙橋誠之介によって小説化され、さらに同年10月にはNHKスペシャルドラマ『神様の女房』では映像化もされている。
子供は2人いる
松下幸之助と妻・むめのの間には2人の子供がいる。
松下幸之助の子供
- 娘:幸子(1922年‐2021年)
- 息子:幸一(1926年‐1927年)
子供①:娘・幸子の夫はパナソニック2代目社長
松下幸之助とむめのは、1915年、20歳と19歳の時に結婚。
結婚から7年後の1922年には、第一子となる娘が生まれ、幸子となずけた。
幸子は1940年18歳の時に、日本画家・平田松堂の次男である「平田正治」と結婚し、正治は松下電器産業(現・パナソニック)に入社。
その後、正治は1961年からパナソニックの2代目社長に就任し、16年間手腕を振るった。
子供②:息子・幸一は生後半年余りで亡くなった
松下幸之助とむめのの間には、1926年に第2子となる息子が誕生した。
名前は「幸一」。三越の赤ん坊審査会で最優良児として表彰されるほどの立派な男の子だったという。
しかし、そんな息子・幸一は、生後半年余りで病気によって急逝してしまう。
父親:政楠は米相場で失敗し破産
松下幸之助の父親の名は「政楠(まさくす)」。
政楠は、村では上位に属する小地主の階級にあったため、かなりの資産家だったという。
しかし、そんな政楠は1899年頃に米相場(江戸時代における米の先物相場)に失敗し破産。
その後、父政楠は単身で大阪に出て働いた。
そんな父・政楠は、松下幸之助が9歳の時に、妻(幸之助の母)に宛てて以下のような手紙を送った。
「幸之助ももう少しで卒業だが、大阪の八幡筋にある宮田という火鉢屋で小僧を欲しがっている。ちょうどよい機会だから幸之助をよこしてくれ」
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この手紙をきっかけに、松下幸之助はわずか9歳にして小学校を中途退学し、母のもとを離れ、大阪市南区(現・中央区)八幡筋の宮田火鉢店に奉公するのであった。
ちなみに、父・政楠は松下幸之助が11歳の時に病気で亡くなっている。
母親:とく枝は18歳のときに亡くなっている
松下幸之助の母親の名は「とく枝」。
前述した通り、幸之助は9歳の時には親元を離れ、働きに出ていたため、母親からの愛情は十分に受け取ることができなかった。
しかも、父親は幸之助が11歳の時に病死し、母親も18歳の時に57歳という若さで亡くなっている。
そんな、母親について、松下幸之助は過去のインタビューで以下のように語っている。
「母の愛情というようなものはですね、非常に深いと申しますか偉大と申しますか、まあそういう愛情をこの年になって感ずるわけで、今、母がおればなあ、どんなにでもしてあげるのになあというような感じがするんです」
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子孫:実業家が多い
松下幸之助の子孫には、実業家が多い。
松下幸之助の子孫
- 孫1:松下正幸(パナソニック特別顧問)
- 孫2:ヒロ松下(実業家・元レーシングドライバー)
- 曾孫:関根大介(オープンドア創業者)
松下幸之助の娘・幸子の長男である「松下正幸」は、パナソニックの副社長や副会長を歴任後、2019年からは特別顧問を務めている。
さらに、娘・幸子の次男である「松下弘幸(ヒロ松下)」は、元レーシングドライバーでありながら、現在はレースカーやエアロスペース関係の設計・製造を行う「スウィフト・エンジニアリング」という会社を創業し、会長兼CEOを務めている。
また、孫娘にあたる敦子の子供「関根大介」は、旅行比較サイト・トラベルコの運営などを行う企業「オープンドア」の創業者であり、代表取締役社長を務めている。
上記の通り、実業家一族である。
松下幸之助の家系図・家族構成【妻・子供(息子・娘)・父母・子孫は何者?】まとめ
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今回はこれで以上になります。
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