黒田朝日のプロフィール
黒田朝日のプロフィール
- 生誕:2004年3月10日(19歳)
- 出身:岡山県岡山市
- 大学:青山学院大学地球社会共生学部
- 身長:166cm
- 体重:52kg
2024年箱根駅伝にて、各校のエースが集まる「花の2区」を任され見事区間賞を獲得し、青山学院大の優勝に貢献した2年生ランナー「黒田朝日」。
中学時代はバスケ部に所属していたという黒田朝日は、高校から陸上競技部に入り長距離走を始める。
そして大学は、陸上競技部長距離ブロック監督である原晋(はらすすむ)にスカウトされ、青山学院大学に入学。
1年次こそ、大学三大駅伝(出雲駅伝・全日本大学駅伝・箱根駅伝)の出場は一度も無かったものの、2年次からレギュラー入りを果たしチームの勝利に貢献している。
そんな黒田朝日の父親「黒田将由」は法政大学のOBであり、過去に3度、箱根駅伝への出場記録がある。
今回は、黒田朝日の父親・黒田将由のプロフィールや経歴について解説していこうと思う。
黒田朝日の父親「黒田将由」は何者?
4years.でいま注目を集めている記事をご紹介します。
— 4years. (@4years_media) February 10, 2021
今日2月10日、たくさんの方に読まれています!
「陸上・駅伝 – 法政大OB・黒田将由さん 突発性後天性無汗症を乗り越えての現在! 」https://t.co/AIcnV34RUH
黒田将由(くろだまさよし)のプロフィール
- 生誕:1981年11月22日(42歳)
- 出身:岡山県
- 高校:玉野光南高校
- 大学:法政大学
- 職業:中国電力
黒田朝日の父親「黒田将由(まさよし)」は、法政大学陸上競技部のOBである。
岡山県で生まれた黒田将由は、小学校・中学校ではサッカーをしていたが、高校から陸上競技部に入部。
その実力はすぐに開花し、1年の秋には国体少年B3000mに出場し3位に入賞。
そして高校3年に出場したインターハイ(3000mSC)では見事優勝を果たした。
その後、法政大学に進学した黒田将由は、3年次は故障で出場を逃したものの、1年・2年・4年の3度箱根駅伝に出場ている。
黒田将由の経歴・学歴
黒田将由の経歴・学歴
- 1981年:岡山県に生まれる
- 1997年:玉野光南高校に入学
- 1997年:国体少年B3000mで3位
- 1999年:インターハイ3000mSCで優勝
- 2000年:法政大学に入学
- 2001年:箱根駅伝1区で3位
- 2002年:箱根駅伝1区で6位
- 2004年:箱根駅伝3区で4位
- 2006年:中国電力の実業団へ
- 2010年:競技引退
1981年:岡山県に生まれる
黒田将由は、1981年に岡山県で生まれた。
小学校・中学校ではサッカーをやっており、高校でもサッカー部に入る予定だったという。
1997年:玉野光南高校に入学
1997年、黒田将由は地元の「玉野光南高校」に進学した。
入学当初は予定通り、サッカー部に入るつもりだった黒田将由は、当然のごとくサッカー部の見学に行くが、そこで気持ちに変化が生じる。
玉野光南高校に入ってサッカー部の練習を見に行ったら、中学の頃から有名な選手がいっぱい練習をしていて、自分には無理と思ったんです(笑)。
4years.
上記の通り、サッカー部のレベルの高さに出鼻をくじかれた黒田将由は、サッカー部への入部をあきらめた。
しかし、「走るのは好きだった」ということで陸上部に入部を決めたのである。
陸上との出会いは、必ずしも劇的というわけではないようだ。
1997年:国体少年B3000mで3位
高校で陸上部に入部した黒田将由は、早くも1年の時に才能の片鱗を見せる。
1年の秋に出場した国体の「少年B3000m」という種目で見事3位に輝いたのである。
この時、優勝を果たしたのは、高校1年ながらインターハイ1500mで優勝していた「佐藤清治」、準優勝はのちに日本代表として4度世界陸上に出場した「前田和浩」であった。
この実力者2人に次いで3位に輝いたのが、陸上競技を始めて1年も経っていない黒田将由だったのである。
1999年:インターハイ3000mSCで優勝
高校2年生の頃は、5000mなどにもチャレンジしていた黒田将由だったが、自分の限界を感じていた。
そこで新しくチャレンジを始めたのが「3000mSC」。
障害物を通過しながら3000メートルを走る競技であった。
そして、高校3年で何とかインターハイまでコマを進めた黒田将由は、見事3000mSCで優勝を果たすのである。
2000年:法政大学に入学
玉野光南高校を卒業した黒田将由は、2000年に法政大学に進学した。
当然、法政大学では陸上競技部に入部。
当時の法政大学陸上部の雰囲気について、黒田将由は過去のインタビューで以下のように語っている。
「練習は厳しいですが、自由なチームでしたね。楽しくのびのびできる環境を作ってもらえていました」
4years.
ここから、黒田将由の駅伝人生が始まるのである。
2001年:箱根駅伝1区で3位
2001年、大学1年生の黒田将由は、箱根駅伝1区に出場した。
箱根駅伝デビュー戦は、1区3位。
先頭と2秒差の区間3位であるため、なかなかの好成績だったようだ。
2002年:箱根駅伝1区で6位
大学2年の箱根駅伝でも、黒田将由は1区を担当した。
去年のリベンジを果たすべく、1区区間賞を狙っていた黒田将由だったが、結果は1区6位。
悔しい結果に終わっている。
2004年:箱根駅伝3区で4位
大学3年は、故障で箱根駅伝を欠場。
大学4年では、何とかチームに復帰したが、万全の状態とは言えなかったため、希望の1区ではなく3区を任される形となった。
しかし、故障明けながらも、黒田将由は3区4位でなんとか襷をつないだ。
2006年:中国電力の実業団へ
法政大学を卒業した黒田将由は、当時トップアスリートが数多く在籍していた「中国電力」の実業団に入った。
そして、2006年に出場した「ニューイヤー駅伝」では3区11位(日本人トップ)で襷をつなぎ、チームの準優勝に貢献。
しかし、トップアスリートが集まるチームとしては、2位という結果はかなり悔しいものであったようだ。
2010年:競技引退
中国電力の実業団で練習を重ねていた黒田将由は、突如「突発性後天性無汗症」という病気を発症。
突発性後天性無汗症とは、汗が出なくなる病気で、運動をしても汗をかかないため体温調節ができず熱中症になりやすいなどの症状がある。マラソンランナーとしては致命的な病気だ。
リハビリや治療を続けた結果、何とか復帰までもっていった黒田将由だったが、以前の状態とは程遠く、やむなく2010年に競技引退を決意した。
競技引退後は社業に専念している。
黒田朝日の父親「黒田将由」は何者?まとめ
今回はこれで以上になります。
最後までご覧いただきありがとうございました。